特別講演 南嶌宏 氏

特別講演「現代美術の可能性―根源から発信するアーティストたち―」2011総会(5月15日)

概況

 恒例企画となった総会での特別講演だが、今年度は美術評論家・女子美術大学教授・キュレーターである南嶌宏氏を迎え、標記について90分に渡り講演していただいた。キュレーターとしての出発点であるいわき市の被災状況、チェルノブイリ事故に関するポートレート作品、やなぎみわ氏の「老少女劇団」、ハンセン病療養所の人々の作品などをスライドで紹介しながら、現代美術作家が今、考えるべきことについて述べていただいた。南嶌氏は、福島県いわき市立美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館などに参画されながら、その都度ご自身の芸術感が変わるような出会いをされ、芸術の持つ力を強く感じられている。
 東日本大震災に直面し、アーティストには一体何ができるのかと、焦りあるいは無力さを会員誰しもが考えていた時期だと思う。その雲を晴らすような南嶌氏の講演に出席者は聞き入った。

記録

■名称=総会
■講演名=「現代美術の可能性―根源から発信するアーティストたち―」
■講師=女子美術大学教授・キュレーター 南嶌宏氏
■開催日=2011年5月15日
■場所=浦和コミュニティセンター

特別講演 南嶌宏 特別講演 南嶌宏

講演内容

 今回の大震災は、アートや芸術とは関係のない事象でありながら、実は根源的なところでは、表現者である私達が何よりも身近に考えなければならない問題である。作品の売上を義援金にすることは誰しもが考え、それも支援の1つの方法ではある。しかし、果たしてそれで良いのだろうか。アーティストが震災に対してそれほど素早く対応し、即効性を見せる必要があるのだろうか。もっと時間をかけても良いのではないかと感じさせるのは、ガリーナ・モスカレーヴァ氏(1954.リトアニア)のチェルノブイリ事故に関するポートレートである。そこに写された10歳の少年少女達の首筋には、言われなければ気づかないような小さな傷跡がある。それは小児性甲状腺ガンの手術を受けた跡であり、美をたたえた子供の表情の中に現実を突きつけられる。災害が風化しないようにと写真や作品に記録することも意味はあるが、10年後20年後でなければ分からない作品を作るということも、アーティストにできることである。
 やなぎみわ氏の作品からも感じられるように、歳をとれば死に近づき、生きる気力がなくなると社会は思い込ませる。しかし、死までのリアルな時間が見え始め、死からの逆算ができるようになると、かえって生きることの重さを実感し、欲望も生まれる。大震災を経験し、多くの人々が避けてきた死について考えさせられた。逆を言えば、生きることをこれほどまでに求める瞬間も今を置いて他にない。死や悲しみも、もっと表現しても良いのではないか。そして、その仕事を担っているのがアーティストである。
 ハンセン病の療養所に住む人々との出会いも大きい。会いたくても会えない人を描いて満たされる、戻りたくても戻れない場所を繰り返し描くことにより懐かしむように、生きるということは、そんなささやかな思いを果たしていくことだと教えてくれる作品がある。芸術作品とは、無いものに姿を与え、私達の持つ空白感を埋めるものである。私達もいつかは死に、残されるのは作品だけである。残された作品がどういう波及力を持って生き続けるのか、その時に求められるのは、技巧や表現力ではなく、そこに何を宿したかという決意である。
 人間とは、悲劇を通してでなければ、死や、そこから引き出される生を感じられない愚かな存在である。しかし、美術館で作品の前に立つことが、そうした経験を凝縮したものであることを願う。あなたの作品の前に立てば、東日本大震災の経験も、アウシュビッツの経験も、生死の経験も、全てここにあるのだということを思わせてくれるよう、アーティストに求めたい。